アニオタ時代の個人的回想

中学のときはガチのアニオタだったから、街に出かけるときはアニメの絵が描いた紙袋をいつも小脇に抱えていた。ラムちゃんとかクリィミーマミの絵が描いてあるようなやつ。そんで月に何回かバスに乗って街に出て、旭屋書店とリーブルなにわに行ってマンガの発売予定とかアニメ雑誌とかひと通りチェックして、アニメイトでアニメの絵の描いた缶ペンケースやポスターを買ったりしていた。

もちろんオタクたる者、過去の歴史もさかのぼって学習せねばいかんと思っていた。同級生の家の物置に捨てようと思ってるアニメディアとジ・アニメが積んであると聞けば、自転車こいでサルベージ。ぜんぶもらってきて熟読。マーグの葬式の話を追体験して、もちろん宮崎駿は「太陽の王子ホルスの大冒険」から順を追って観ていった。新ルパンは「アルバトロス」と「さらば愛しきルパンよ」だけ標準画質で保存。「カリ城」は劇場やビデオで20回くらい観てセリフをぜんぶ丸暗記していた。

毎月買ってた雑誌はアニメージュファンロードアニメージュの白黒ページでイベント情報調べて、試写会とか欠かさず行っていた。当時はOVAの黎明期で「幻夢戦記レダ」とか「戦え!!イクサー1」とか「戦国魔人ゴーショーグン 時の異邦人」とか、ぜんぶがんばって試写会応募して観に行っていた。あと街中には各電機メーカーが展開していたVHDのショールームがあって、「バース」とか「メガゾーン23」とか「エリア88」とかはそこに通って観させてもらってた記憶がある。

ファンロード集会に行ってイニシャルビスケットのKと一本木蛮を横目で眺めつつ「ゲゲボー」とか言っていた。アニメージュにイラスト投稿して載ったこともあった。

そのほか市内でサイン会やイベントがあれば必ず行っていた。島本和彦には色紙にスズメを描いてもらった。いのまたむつみは「レダ」、安彦良和は「アリオン」の頃だった。ニュータイプ創刊記念の永野護鮎川麻弥の合同サイン会にも行ったし、「Zガンダム」放送開始時はデパートで歌ってる森口博子のインストアライブも観に行った。「マジカルエミ」のイベントはデパートの屋上でやってて、レコード予約して小幡洋子にサインもらった。

湖川友謙のデッサンの本を買って、Gペン使う練習もして、同人誌に4コママンガ描いたりもしていた。学校にはオタクの友達はいなかった。その当時、金田パースがどーしたとか板野サーカスがどーだとか言ってる同級生はいなかったから話があわなくて。しょうがないので市内のオタクサークルみたいなところに出入りして、そこでマンガ描かせてもらったりしていた。内容は「マグネロボ ガ・キーン」のアニパロみたいなやつ。意味わからん。そのサークルで「くりぃむレモン」借してもらったり、あと「ウルトラセブン」12話や「DAICON FILM」や庵野の「新マン」もそこで見せてもらった。このへんってオタク的には第2世代に当たるのかな。1980年代前半頃。まだ当時は「オタク」って言葉はなくて、でもそこのサークルの人たちは相手のことを「オタクは〜」って呼び合ってるから、不思議だなーと思っていた。

もちろん当時、テレビでやってるアニメはほぼ網羅していた(網羅しようと思えば網羅できる牧歌的な時代だった)。「うる星やつら」あたりはもちろん観ただけで作画監督もわかったし、それどころか「ドラえもん」の脚本担当もかなり高い確率で当てることができていたので、よくわからんけど当時はけっこう研ぎ澄まされていたと思う。

でも、そんなアニメどっぷりな生活は、中3の夏に「ラピュタ」を観てものすごく興奮したのを最後に、唐突に終わりを迎えることになる。パンクロックに出会って、濃ゆいアニオタ生活からはあっさり足を洗ってしまった。

でも結局そのあとはリアルタイムでブルーハーツとかRCサクセションとかを聴きつつ、村八分やらINUやらはっぴいえんどやら、そのへんの日本のロックの歴史を掘りはじめるわけで、結局やってることはずっと変わらんのよね。そういえば小学生の頃からドラえもんひみつ道具を五十音順で整理したノートとか作ってたし。やっぱりもともと凝り性でオタク気質なんだと思う。

そんなアニオタ時代も今となってはいい思い出です。なんだったんだろうあの頃。